事象の地平線

相対性理論の「事象の地平線」について、考えていた。

私の足りない頭じゃあ、どうにも理解できないんだけどね。

 

ただ、「人が、ある事象を理解するための限界線」と、置き換えて考えると面白かったりする。

 

しがない受験生生活を経て、「人」が相手の感情を理解するためには、「言葉」という媒介がなければならないと考えていた。

それが「地平線」だと考えていた。

そう、考えたかった。

 

だけど、一方で、それ以外の可能性を信じたいと思う自分もいた。

 

 

私は「人」が好きなのだ。

嫌いな素振りをしていながら好きなのだ。

愛しているからこそ、期待したり、不満を抱いたりする。

 

 

「言葉」という限界を超えて、相手のしぐさのパタンを分析し、感情を確かめようとする。

「地平線」は、とっくに「言葉」という限界を超えていたのに、今までなぜ気付かなかった、否、気付かないふりをしていたのだろう。

 

今日は、今までお世話になった担当者と久々に飲んだ。

今まで憎まれ口ばかり叩いていた自分に、相手が変らず親切だった理由は、彼にとっての「地平線」も「言葉」の限界を超えていたからに違いない。

汚い口を叩きながらも、相手に敬意を抱いていたこと、愛情を持っていたこと、感謝していたことは、「言葉」という限界を超えて、通じていたんだろう。

 

自分は幸せ者だ。

 

我々にとっての事象の地平線は、とっくに「言葉」を超えている。

面倒くさいことばかりだけど、愛おしい営みだ。

 

なんとなく、そんな風に考えてみたりした。